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ロング・ウェイ・ホーム

著者 真壁 海晴  まかべ みはる

電子書籍:作品紹介
大阪の街を舞台に、五人の若者の織りなす人間模様。二人の刑事、銀行員、大学講師とその従妹。それぞれが仕事やプライヴェートでさまざまな問題を抱えているが、互いの友情と愛情によってそれらを乗り越えて行く。その一方で、刑事たちの抱えた警官襲撃事件は捜査が難航し、一人の刑事はその課程で大怪我を負う。やがて真相が明らかになった時点で、刑事たちはまた一つ心に別の傷を負うのだった。そしてすべての問題が解決を見たとき、五人の間にはささやかではあるがある種の清涼感と、そして新しい愛が芽生えていた。


■著者紹介
京都府在住。主婦。
最初の小説を書いたのは大学時代。以後、就職〜結婚・出産・育児で中断しながらもコツコツと作品を書きためています。
いずれも今作品の登場人物が主人公の作品ばかりで、いわゆるシリーズ物です。
好きな作家はエド・マクベイン、ピート・ハミル、宮部みゆき、東野圭吾、高村薫などです。

この著者のブログ

価格¥400(税込)
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抜粋

 開け放った窓に広がる情景は、平和そのものの日常だった。
眼下の公園には、今日も穏やかな時間が流れている。時折あがる、快活な犬の鳴き声、転がるような子供の笑い声。それらの声の主が、くるくると広場を走り回る姿が、小さな手鏡のように陽の光を反射す葉をたたえた大きな樹の間から見え隠れする。少し離れたところのベンチでは、営業職のサラリーマンらしきスーツ姿の若い男が、ちょっと早い昼食の弁当を膝の上に広げている。そばには缶入り飲料とコンビニの袋。こんなに天気が良い日は、こうして外での食事も悪くはないのだろう。男の顔からは、子供たちの騒がしさに眉をひそめる様子は伺えなかった。
──無縁な場所だ、と彼女は思った。
 この部屋からさして離れているわけではない。普段はマンションの住人とその関係者が使うだけの、車が行き交うには少し狭いくらいの道路を一本隔てたすぐ向こうに、その公園は広がっている。子供のための児童公園を名乗っているわけでもないから、誰だって出入り自由だ。現に、あのスーツの男だってああして一人で気楽な食事を楽しんでいる。
 けれども彼女は、一度もあの公園を訪れたことはなかった。買い物の帰り、大通りからこの前の道に入り、右折してマンションの玄関に向かう代わりに数メートル先の公園の入り口まで足をのばすことは、動作としてたいした違いはなかった。時間にしてもほんの数秒。三階のこの部屋まで上がってくることと比べれば、むしろ公園の方に早くたどり着けるくらいだ。
 結局は、気持ちの問題なのだった。  あそこへは行かない。行こうとも思わない。行く理由がない。
 彼女はそう考えていた。心の中で、自宅(ここ)と公園(あそこ)の間には大きな隔たりがある。かつてのベルリンの壁よりも厚く、三十八度線よりも長い、見えない巨大なシールドが……。
 遠くなった空からまっすぐに降り注ぐどこまでも明るい陽光に負けてしまったかのように、彼女は部屋の中に顔を向けた。
 そばの白いワードローブの棚に、フォトフレームが一つ。今日の空などは比較にならない、どこまでも澄んだ海に浮かぶヨットの上で、彼女と夫が白い歯を見せてカメラに笑っている。一年前の、青い夏の日。
 お互いの思いは、今でも変わらないと信じている。
 しかし、だからこそ辛かったのだ。
 考えに考え抜いたつもりだった。決して自分だけを守るためではなかった。あの人を守るため。ただそれだけのため……。
 心の中で何度も言い聞かせながら、膝の上に一時間以上も握り締めていたコードレスの電話をゆっくりと持ち上げ、震える手でボタンを押した。
 一方では、破滅を望んでいたのかも知れずに。

 二人は今、仕事場である西天満署を出て、堂島川沿いを東に向かって歩いていた。夫を出刃包丁で刺してしまい、自分も死ぬと言って通報してきた妻のいる傷害事件の現場に向かっているというのに、ずいぶんのらりくらりとした歩き方だった。
「──ったく、さっきの野郎にはむかっ腹が立ったぜ」
 芹沢が言った。出身は福岡だが、大学時代を東京で過ごしたのでほぼ正確な標準語で話すのだった。
「もう一度言っとくが、今度はおまえの番だぜ。俺はもうあんな薄汚ねえ部屋で硬い椅子に座って、あいつのアホな話は聞きたくねえ」
「安心しろ。あいつの方かて二度とおまえは願い下げやて言うてる。鼻の骨折られるとこやったんやからな」
「後は生活安全課に任せりゃどうだ。傷害の方は喋ってるんだから、こっちはもう用済みだろ」
「そしたらこっちにはおもろない報告書書きだけが待ってるってことか」
「仕事が面白えもんだと思ってるのか? めでたいな」
「思てないけど、とりわけ書類仕事はおもろないと言うてるんや」
「確かに、おまえには取り調べの方が向いてるかもな。俺にゃ大阪の奴らは訳が分からねえ。ほんま、つき合い切れへんわ」芹沢はわざと下手くそな大阪弁を使った。
 鍋島はふん、と鼻で返事をするとジャンパーのポケットからセブンスターを取り出した。一本を口に挟み、今度はライターを出してきて火を点ける。
「──で、俺があのガキ相手にケツ痛めてる間、そっちは脂下がって女と電話してたってか」
芹沢が言った。
「何やそれ」
「さっき課長が言ってたぜ」
「こっちから掛けたんやない。掛かって来たんや」
「どっちだっていいじゃねえか。ムキになるなよ」
芹沢は呆れたように笑って鍋島を見た。
「あれか? 京都のお嬢さんか」
「ああ」鍋島は灰を落とした。「気楽なもんや」
「お茶だかお華だか、そういうの教えてるって言ってたな」
「両方。道楽に近いんやろうけど──その道楽もんの昼メシに、もうちょっとでつき合わされるとこやった。こっちは課長に絡まれてる最中やったのに」
「そんなの、お嬢さんにはお構いなしってことじゃねえの。知り合ってもう長いんだろ」
「三年」
「だったらいい加減文句言わずに、つき合ってやりゃ良かったのに。そうすりゃくだらねえ夫婦喧嘩の後始末になんか行かなくて済んだかも知れないぜ」
「亭主、死んでるかも知れんぞ。浮気がバレたとか何とか言うてたらしいけど」
「嫉妬深い女にだけはつかまらねえこと。愉しく男やって行くにゃ、それが必要最低条件よ」
「経験則か」
「まあな」
「それやのに、女からの電話でしょっちゅうぺこぺこ頭下げてるのはどういうわけや?」
「放っとけよ」
 芹沢はむっとして鼻息を吐いた。それから、改めて鍋島の格好を上から下まで眺めると首を振り、思わず立ち止まった。こんな奴にあれこれ言われたかねえ、とでも言いたげだった。そして彼は言った。
「なあ、その汚ねえ格好どうにかならねえのかよ?」
「もう長いつき合いなんだから、いい加減文句言うなよ」
 今度は鍋島が下手な標準語で答えた。
 晴れた日の十月。河向こうの中之島中央公会堂が、ずいぶん近くに見えた。

「久しぶりやな、麗子」
 カレーライスを注文した後、萩原は上着のポケットから煙草を出しながら言った。
「そう? ゼミの飲み会以来だから、まだ二ヶ月よ」
 麗子もバッグからシガレット・ケースを出す。
「ちょっと見ぃひん間にまた綺麗になったな」萩原はしげしげと麗子を見た。
「それが驚くなかれ、大学の人気講師なんやし──才色兼備とはまさにおまえのことなんやな」
「いくらお世辞言ったって、何も出ないわよ」と麗子は微笑んで腕を組んだ。
「分かってるって。で、今日は何や」
 萩原は言うと銀行を出るときの皆の驚いた顔を思い出した。特に山本は口惜しそうやったな。
 一瞬だけ視線を落として、麗子は言った。
「別に用ってないわ。近くへ来たから、ちょっと寄ってみただけ」
「ほんまか?」と萩原は疑わしげな笑みを浮かべた。
「そんなタイプやないやろ。ちょっとぶらっと、とか、気が向いたから、なんてのは性に合わへんのと違うんか」
「そんなことないわよ」
「いや、そんなことあるね。行動のすべてに目的と結果が伴ってないと嫌なんやろ?」
「なに? それじゃまるであたしが情緒欠落人間みたいじゃない」
「それに近いかもな」
 失礼しちゃうわね、と麗子が言って二人は笑った。やがて萩原が自分の吐いた煙に目を細めながら言った。
「鍋島のことか」
「え?」
 麗子が顔を上げると、萩原はしたり顔で見つめていた。卵型の顔の中で最も印象的なのはその伏し目がちの二重の目で、長い睫毛の間から茶色がかった瞳を、今はいくらか大仰に輝かせて覗かせていた。太くはないが凛々しい眉がこめかみに向かってまっすぐに伸びている。かっちりとした濃紺のスーツに糊の効いたワイシャツ、その袖口から覗かせた何気ないデザインの時計は専ら機能重視を主張しているかのようだ。落ち着いた色調のネクタイ、スーツの襟には巨大コンツェルンのトップに君臨する輝かしい社章。典型的なホワイト・カラーの青年である。しかしながらそれは学生時代の彼とはとうてい繋がらない、即ち麗子には単に外見上だけのものであると容易に見抜けるイメージだった。
「どうしてそう思うの?」
「俺とおまえの歴史の中で、あいつ抜きの瞬間なんて一瞬たりともないからな。おまえとあいつの間では、俺抜きってこともありうるやろけど」
 芝居じみた、そして何となく意味深な萩原の台詞に、麗子は「何よそれ」と笑った。
 そこへカレーライスが運ばれてきて、萩原は煙草を消した。麗子の前にはシーフードサラダとフレッシュ・オレンジジュースが並べられた。二人は黙って二、三口食べた。
「──しばらく、アメリカに行ってこようかと思ってるの」
「里帰りか」
「うん、まあ──そんなとこ」
 話を振ってきたのはそっちだろうが、と萩原が怒りたくなるような気のない返事をサラダの中に落として、麗子は小さく溜め息をついた。

「あいつとはしばらく会うてないよ」
《え?》
 そう言う事実を伝えることが、真澄の心の不安材料を取り除くことだと鍋島には分かっていた。そう、分かっている。彼女の俺に対する気持ち。だから、麗子の所在がはっきりしない今、どうしてもここに電話してきてしまうのだ。そして俺もつい──
「八月にゼミ仲間の飲み会で会う予定やったんやけど、結局は俺が行かれへんようになってしもて。せやからもう三ヶ月以上は会うてないな。電話ではひと月ほど前に喋ったけど」
《あ、そうなん……》
「デートと違うか。こんな時間に家にいてなくて、携帯も切ってるんやったら」
《ええ? そうかな》
「意外そうな声出すなぁ」
《だって……勝ちゃん、知ってるの? 麗子に彼氏がいるのかどうか》
「知らんけど」
《勝ちゃんが知らんのやったら、そんな相手いてないんやわ》
「別にいちいち俺に言う必要ないと思うけど」
 鍋島はちょっと腹立たしくなってきた。無論、自分と麗子との関係を恋人同志だと信じて疑わない人間はこれまでに何人もいたし、そう誤解されても仕方のない部分もあるとは思っていたが、ここまで単純に自分と麗子とを結びつけて考える真澄の発想に少し彼は呆れ、また一方では重くも感じていた。そう。そうだ。分かっている。彼女の俺に対する気持ちは……。


書籍データ

  • ページ数:435p
  • 原作:書籍
  • 発行:でじたる書房
  • 発行日:2006/10/27
  • データ形式:でじブック形式
  • おすすめ度:★★★★★

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